これは恨み言です。





今日家に帰って、話したいことがいろいろあったんだけど、家の人の話を先に聞かされて、まあいつものことなんだけど、それを聞いているうちになんだか自分の話などどうでもいいような気になってきて、いつものように「どうでもいいこと」として自分のなかで処理されてしまっているのです。








思うのですが、人との会話において重要なのは「気づき」でありましょう。

目の前の人が話した内容について、何らかの気に留める事物はないか、また気に留めてほしがっている言葉はないか、ということについてどれだけ多く気づけるかということだと思うのです。

もちろん、そのことに対する当意即妙かつユニークな返しも必要ではありますが、それが相手の意図に沿っていなかった場合、会話がぶつ切りとなる可能性があります。

「終わらせる返答」というのは大変よくない。

悟りを気取る男性に多いが、その様な返答を多用していても興味を持ってくれる人間は果たして小説の中だけです。もし身近にいらっしゃるならば感謝してください。




会話を続かせるためには相手の意図に沿った返答か、相手のテリトリーに近い新たな話題を振る必要があります。


それに必要なのが「気づき」です。




ただ、気づく、というのは大変難しい。多くの人にとってはごく日常呼吸をするような造作もないことだと思われますが、僕にとっては精神をかなり使います。

分からないのです。頭が回らない、という言い方が正しいかもしれません。気が回らない、とも言えるでしょう。


他人の会話を聞いていて思うのですが、おもしろい会話というのは、あれ大抵はたいしたこと言ってません。時に傍から聞いていてもにやけてしまうような内容もありますが、多くは誰でも思いつくような言葉が並びます。

違いはやはり、「気づき」にあるでしょう。それは「相手の言葉に対する気づき」、またその話題に関する「自分の中にある気づき」をどれだけ上手く引き出せているかです。

それらが上手く噛み合っている会話はとても滑らかに動き、いつまでも会話が途切れることがありません。




僕は正直、人と話すのが苦手です。

話題を振ったりするのができず、いつも数秒で黙るため会話に楽しみを感じません。

それでも時に上手く相手が笑ってくれるときがあります。

そんな時に普段の僕は会話に対する気づきが足りないと強く感じます。

相手の言葉の意図に沿った返答はちゃんと自分の中にあります。僕はそれを上手く引き出せていないように感じるのです。



僕はよく、相手の言葉になんて返せばいいのか分からなくなることが多々あります。

それは質問されたときや、なんでもない日々の会話の中でもあります。

言葉が喉の奥でつっかえているような感覚があるのです。自分の中で出すべき返答があるのは分かるのですが、それがどうしても出てこない。結果平凡な返答しかできないのです。

これはつまらない。



僕は時に、「聞き上手」だと言われることがありますが、違うと確信しています。

僕は単なる「話し下手」です。






言葉が喉の奥でつっかえている、これは話したいことがあるときに逆に人に話を聞かされたときにも感じます。





結局僕は話すことを本能的に、無意識に諦めてしまっているのです。僕の「話したいこと」は「どうでもいいこと」だと自分ですり替えているのです。

そして簡単に忘れていってしまう。引き出しとして、気づく要素の一つに加えることができずにいる。「話のネタ」にできない。

僕はまったく残念な人です。

聞くのがイヤになったときにはもう話すのもイヤになっていました。





もし子どもができたら、まず子どもの今日一日の話を聞く親になりたいと思います。