理屈はごちゃごちゃ

今更こんな歳になってこんなことをぼやくのも情けないが、そろそろ自分というものが固まり始めて、あんまりおもしろくなくなってくると自分というものの底が見え始める。
長い付き合いは向いていないだとか、興味が逸れるととたん価値を見出さなくなるだとか、すこし見栄っ張りであるとか。
自分に原因があるとすれば、少しの努力と積極性を続けられなかったことだろう。僕は人間関係であまり失敗できていない。
外に原因があるとすれば、これまで大人しく言うことを聞けと育てられてきたのに、ここに来て自分で考えてしかも独創的かつ個性的な発言を求められても困る、ということだろうか。
そういえば今日、ふと感じたのが、経済学だかの講義で曲線とか直線がでてきて接点だの交点だのと文系の自分には懐かしい単語が出てきた。その時は「ふむなるほど」と理解はしたが、さび付いた知識はそう簡単に回らない。さび付いた回路からその時零れ落ちたのが、「こういう話をもっと数学の時間にしてほしかった」。
僕は高校時代、典型的な勉学に対する疑問と闘っていた。飼いならしていた。二次関数も、三次関数も微分積分も接線も、いくら合理的な求め方を叩きこまれようと、さてそれではこれはなぜこのような作業をするのか、全く分からなかったものだから、いくらそれが単純明快な原理であっても、なるほどとは思えなかった。いかなる数式の展開も、因数分解も、xもyも、だからそれがなんなのだというものでしかなかった。今だからこそはばかることなく言えるが、当時の僕は秀才に近しい人間だったと思う。県内1、2位の私立に通い、なんとかこなしていた。こなせていたのは初めだけだったが。
僕はまず自分の思考が理屈できちんと積み重なっていかなければウンともスンとも動けない人間だ。これは最近気づいた。「とりあえずやってみないことには見通しがつかない」というのが知り合いのスタンスだが、「見通しがつかないととりあえずも何もできない」のが僕だった。最初に問題についての資料を満足するまでかき集め(主にネット)、目を通して予備知識とでも言えるようなものを頭に入れてから「どっこいしょ」と問題に取り組むのが僕である。とりあえず取り組んで分からないことにぶつかるたびに調べるのは性に合わない。どうもお先真っ暗手探りな気がしてしまう。まず全体を見渡したいのだ。これはどこからこんな考えになったのかは分からない。生きるすべなのかもしれない。それとも単に中高時代のトラウマからなのかもしれない。とりあえず僕にとって「ある分野」という土地があったら、掘り進めながら出てきた問題や課題をその都度検証するのはダメで、土地全体を測量・x線照射してからそれをよく見るために掘り返す方がいいのである。
長々と何が言いたいかというと、僕は中高の勉強の仕方に完全にやられてしまったのだ。僕はその6年間をどうしても自分のペースがつかめないままに過ごしてしまった。三次関数とやらも、x・y・zとやらが絡むこともわかりはするが、ではその三次関数とやらはそもそも何がしたいのだ?極大・極小は、こいつらはなにを意味しているのだ?という疑問を、白紙の宿題プリントの上から払いのけることができなかったのだと今では思う。何より余裕がなかった。進学校だったことも災いした。この悩みは誰とも共有できなかったし、なによりうまく言葉にできなかった。そんなことに疑問を感じているくらいなら、まずは目の前のプリントをこなすことの方が優先だった。そうして僕は、何か大切なものを、核心をどこかに放って忘れてきてしまったような無気力な状態で、芯の伴ってない理屈の周りに重たい知識を言われるがままにペタペタと貼り付けてきてしまったのだろう。結果すべてはがれおちるか、その理屈ごと折れ曲がるかして、あとには散らばって少し欠けた知識たちがその辺に転がっているような状態なのだ、今の僕は。思うに一番最初の一番大事な、誰も教えてくれはしない、そして自分では決して気づけないトコロを僕は作りそびれたのだ。その反動が公務員講座かもしれない。
AはB、BはCなのでAはC、ではダメなのだ。こんな考え方、いちいち公式化されて難しいことのように書いてあるけれど要は「風が吹けば桶屋が儲かる」にすぎないのだ。誰でも簡単に使えるようにするためか知らないけど、公式は一番大切な「芯」の部分を取り除いてしまっている。なんだって昔の人(かどうかは知らないけど)が散々頭を悩ませて、1から考えていって、そもそもAがAである所以とかそれがもつ性質とかを考えた上でのAはBであって、いきなりAとかBとかCとか言われても知らない。
僕の頭の構造は小学生のころから変わってないんじゃないか、と最近思う。ちょっとのことにつまずくと、ぱったりと思考が止まる。さっさと割り切って先に進めばいいのに、同じことを何度も何度も考えては、答えなんて出やしないのに、どこかで諦めの地点を探さなきゃいけないのにどうしても納得できずにいる。どうしたもんだろう。そして同時に、割り切って行動している自分、答えなんてないことを知っている自分もいる。「そんなこと悩んでも仕方ない」とよく友達にはいうけど、半ば自分を勇気づけている言葉のような気もする。

得意なことといえば、資料作りなんかは好きだ。体裁をきれいに整えていくのが、レポートであっても一つの作品みたいで、完成したときはそれなりに満足感があったりする。またプレゼンなんかを、うまく他人に理解させられたときも達成感がある。説明するときはもちろん些細な疑問の答えから説明する。理屈を立てるのがしっかり掴めている感覚がして心地がいい。なんであっても整理するのは好きである。自分の頭の中は自分の部屋と同じだと思う。嫌いな先生が「頭のなかは机の周りと同じ」と言っていたが、不服だが、それに近い。整理ができていれば心地がいい。思うところから、思うものがちゃんと出てくる。必要なものは手の届く範囲にそろっている。見た目のデザインも重要である。部屋が汚ければ頭の中も乱雑になってくる。自分の考え方が狭苦しいのは、今の部屋のせいかもしれない。
大きい部屋が欲しい。すっきりとした机回りをずっと夢見ている。








あゆせ