夏前日
創作小説その2の1
夏なんて嫌いだ。
僕は川原のベンチに座り溜息をついた。
そのままずり落ちるようにして空を見上げた。
「夏なんて大嫌いだ」
口に出してみた。言葉は枯れた葉のように風に簡単にすくわれると、どこか遠くへと飛んでいった。
そして代わりに湿気た空気を運んできた。髪や肌がべたつく。
河川敷に沿って続いている樹木のおかげで、ベンチに座る僕は陰に覆われてはいたけど、そんな風のせいで全く涼みやしない。
夏なんて来なければいい。
そう、このまま止まって、この日差しのまま、ずーっと6、7、8月と過ぎて行き、そのまま秋に突入してしまえばいいのだ。
葉はいっせいに色を変え、観賞する間もなく一気に散ってしまうのだ。今ならまだ許容範囲だし、間に合う。
止まれ。
このまま季節だけを置き去りにして時間だけ過ぎ去ってしまえ。
そこの散歩する犬も、人も、羽ばたく鳥も、揺れる葉も、すべてそのまま止まってしまえ。
流れる川だけを残し、みんな秋まで夏眠すればいいのだ。
その間、僕はただぼんやりと川の流れを眺め、動かない葉を愛で、息をしない犬を撫ぜ、喋らない人と談笑するのだ。そしてそのまま夏という時間だけを後ろに追いやって、秋に追いつくのだ。
そうなってしまえばいい。いっそ止まってしまえ。
僕は流れる雲を見つめ、また溜息をついた。
溜息をつけばつくほど幸せは逃げるという。何故だろうか。
笑うかどには…の裏返しだろうか。笑い声が不幸を吹き飛ばしてしまうように溜息が幸せをずり落としてしまうのだろうか。
分からない。そもそも、溜息と言うのは溜めて、吐くから溜息なのであって、溜まったものを幸せなどというもののために吐き出さないで居るとどうなるのだろう。
溜まりに溜まった自分のマイナスの感情からプラスが生まれるなどと言うのだろうか。
人間数字じゃない。そんな簡単なものじゃない。マイナスが溜まれば、その人がまとうのはマイナスであり、プラスなんて生まれやしない。
というわけで、僕はもう一度溜息をついた。
雲は相変わらず止まっているかのような飛行を続けている。
どんなに望んだって、思ったって、切望したって、何も変わりやしない。
そこで終わっていては人間として意味が無い。
そんなこと分かっちゃいる。
そう、ずっと自分で証明し続けてきたようなものだ。自分は無力なのだと。
思ってみるだけ、望んでみるだけで、それを実行する勇気もないし、やり方も分からない。
それでもいいから何でもやってみる、なんていうのは前ばっか見てる人間が言うもんだ。
風は相変わらずじとっとした風を性懲りも無く運んでくる。
僕は湿った紙のようにベンチにずり座っている。
空では、同じ風に吹かれているはずの雲が、悠々と、どこを目指しているのかも、何を見ているのかも、考えているのかも、それ以前に動いているのかも分からない具合にミリ単位で位置を少しずつ変えている。
絶え間なく。絶え間ない。
少し目をそらすと、すぐに見失う。
なぜなら、もう形が変わっているからだ。思ってもみないほどに動いてしまっているからだ。
あの速度で、何故そこまでも動けるのだろう。数時間もしないうちにすっかりと視界から消えてしまうことができるのだろう。
後ろを犬と人が通りかかる。子供もつれている。僕のことなんて全く気にも留めていないようにさっさと過ぎ去っていく。早い。鳥が水を切って羽ばたく。切り裂かれてできた断層はハの字型に押し広げられていき、やがて元に戻る。
それでも夏はやってくるのだろう。大嫌いな夏が。
僕は全然まだ乗り切れていないというのに。
まだやってないことも、できていないことも、したいことも、しなくちゃいけないことも、やめてしまったものもたくさんあるというのに、そんな僕に全くお構いなく時間は、季節と、それを含み、それに含まれるすべてのものを引き連れて、僕だけをおいてずんずん先にいってしまうのだ。僕がまだ何も終わっていないのに。
それどころか始まってすらないのに、今日みたいにあっという間にGW最終日をつれてきた。
僕だけ紙飛行機みたいにされて、初日から最終日に向けて飛ばされたみたいだ。
僕は何もしていないのに。まだ宿題も終わってない。学校が嬉々として吐き出した大量のプリントの束なんてまるで初日に置き忘れてきたみたいだ。まだ終わってない。終わらせられたはずなのに、僕の時間は目の前の川のように、ただただ流れていくだけだ。
僕のことなんて気にやしない。あっという間にその次をつれてくる。
知らない間に僕の前に厄介ごとを置いていく。これ、頼むよ、と。
そのまま流していってくれ、なんて言葉は聴いてもらえない。気づいたらまた目の前に置かれてる。
はい、次はこれ。次はこれ。次はこれ。もういい加減にしてくれよ。
僕は空に向かって両手を挙げると頭を組んだ。
遠くからトランペットの音が聞こえる。珍しくもなんとも無い。この前はフルートをやっていた。
ハーメルンの笛吹きみたいに、観衆を集めては引き連れていた。
発声練習だってたまには居る。ド・レ・ミ・…と音階をあげていっていた。C・D・E・…
ギターを思い出した。
少し前にやめた。
きっかけはとてもとても些細なことだ。万人が鼻で笑い飛ばしてしまうようなくだらないことだ。だからそんなことは言わない。
でもやめた。あっさりと手を引いた。
硬くなりかけていた指も、深爪だった指も、そこでギターといっしょにお別れをした。
黒いギターケースに入ったそれは、とてもとても小さかった。僕の足をたびたび痺れさせていた物とは思えなかった。
もうギターはしない。
なぜかそう誓っていた。そう誓いながらケースにロックをかけていた。
確かそのケースは押入れの奥深くにしまいこんだはずだ。取り出す気はないし、取り出せるとも思えない。十数年後の僕がひょんなことから見つけて今の僕を笑ったりするのだろう。
ちと長め。でも短い。