影と、文房具








「何やってんの」
僕の隣に友達が座ってきた。
「本読んでる」
「どんな?」
「こんな」
ブックカバーを外して表紙をほら、と見せた。
僕はショッピングモールの一角のベンチに座って本を読んでいた。
ここは平日・祝日問わずに賑わうところで、いつだって人の流れが絶えることは無い。飲食店とか服飾店はもちろん、文房具屋や100円ショップから食料品売り場まで、それこそ何でもそろうモールだ。本屋があるのに図書館だってある。
四階建て、いや、正しくは何階まであるのかも分からないこの建物は、ただでさえそんな様子なのに東館、西館に分かれている。「何階まであるのかわからない」ってのは、五階から上は普通にマンションになってるからだ。見晴しの良い四階から反対側の棟を見れば分かる。人がひっきりなしに動いてる四階の上に、どっしりと、その辺にたってそうなマンションが乗っかっている。しかもかなり高層の。
あんなとこには住めないな、と僕はぼんやり思った。
だって下の方じゃ知りも知らない他人がたくさんいるんだぜ。そんなトコ、僕は気が気じゃない。
僕の目の前ではさっきから家族連れやカップル、高校生の集団とか塾通いの子ども達が飽きることなく、どこか楽しそうに行ったりきたりしていた。
村上春樹?」
「そう」
友達が素っ頓狂な声を上げた。僕がなんだよ、と彼女を見ると、相手はどう反応したらいいかわからない、といった顔で僕を見た。
「いや、まあ面白いんだよ」
彼女は僕の手から本をとると、ページをぱらぱらとめくった。
「でもさ、この人って」
言葉を選んでるのか、少し考えるそぶりをして、「よく分からなくない?」
「うん、よくわかんない」
「なのに読んでるんだ?」
「わかんないのが面白いというか」
彼女はふうん、とどうでも良さそうに息を漏らすと僕に本を返して、あたりを見渡した。
「なんでこんなトコにいんの」
「ここ、空調効いててあったかいから」
どうでもいいだろ、と一瞬口をつきかけた。どこで何してようが僕の勝手だろ。
でも彼女はそんなの知ったこっちゃ無いんだ。言ったってまた妙な顔されるだけだ。僕はへらへら笑って言葉を続けた。
「お前はどうしたんだよ」
「ん、自習してたんだけど、・・・ちょっと気晴らししようと思って。ふらふらしてた」
トイレか、と僕はぼんやり思った。もちろん口には出さない。
僕らが行っている塾にはトイレが二つあるんだけど、どういうわけか大体いつも埋まっていて、それでも緊急を要する場合ここのトイレを使っていた。近いところに穴場の(?)トイレがあるんだ。
以上、トイレ事情終わり。
「今日は塾出ないの」
僕が手の中で本をもてあましていると、そう聞かれた。
「まあ、今日はいいかな」
「いいって・・・なにそれ。意味分かんない」
「行ったって多分集中できないよ。そんな気がする」
「余裕ね。時期的にも、あんたの成績的にも、本なんか読んでる暇無いと思うけど」
んなこと自分が一番分かってるよ。僕は手から滑り落ちそうになった本をしっかりと掴みなおした。
目の前の服飾店では、蟻が巣穴から出入りするみたいに人が服の中から見え隠れしていた。その隣はコスメショップ。反対側は本屋だ。この並びじゃあ本屋がすごくシュールに見える。僕らの座っているベンチは広い通路を隔てて店と向かい合わせになってて、いくつかが等間隔に並んでいる。
間には観賞植物が置いてあって、なんだか僕までインテリアの一部になった気分だった。背中側は大きなガラス張りで、南向きなのかさっきから陽が差し込んできていて、暖かいし、まぶしい。僕の影なんか、ちょうど園芸の岩みたいだ。
この頃の陽の光は、明るくなったり暗くなったり、不安定で、どこかぼんやりしてる。照らしたものを曖昧にしてしまう、そんな気がする。正直、本を読むのには向いてない。
そうだ、あとで服見に行こう。なにも買うつもりはないけど、目は楽しめるだろう。
「志望。どこにするの」
退屈をもてあましたらしい彼女が、無愛想な声で聞いてきた。少し苛ついているみたいだった。
「○○大学かな」
「何がいるの」
「数学と国語と英語」
「国語と英語、配点高いんじゃなかった」
「ああ、うん。センターもそれが高かったと思う」
「出題形式とか、ちゃんと確認してる?」
「あんまり」
あんまりって・・・彼女はそう呟いて僕の目をみた。苦笑い、じゃなかった。笑いなんかどこにもなくて、ただの『苦』だった。
「そのくらい、ちゃんと見ときなさいよ。自分が受ける大学なんでしょう。そう決めたんでしょう。そこに向かってがんばるって、いままで勉強してきたんじゃない。あそこ、国語と英語、大きいんでしょ。なら、数百字の要約問題とか、空欄補充とか、正誤問題とか、自由英作文とかさ、きっと出るんだよ。それの対策、ちゃんとやってるの。あたしはもうやってるよ。過去問とか、いっぱい解いてる。毎日、時間とノルマ決めて、それでちゃんとやってる。わかんなかった数学の問題だって、克服しようとがんばってんのよ。あたしだけじゃない。みんな。みんなやってる。この前美佳ちゃんに聞いたの。勉強どうしてるって。美佳ちゃん、東大受けるの知ってるでしょう。だから聞いた。そしたらもう、すごいんだって。全部できなきゃダメだって。数学とか、英語とか、得意な教科だけじゃ稼げないって言ってた。とにかく時間が短いから、二問完解するだけでも十分だって。そんなことやってるんだよ。あたしが数学の問題に手間取ってる間にさ、美佳ちゃんはそれをどれだけ速く解けるかって、そんなことやってるんだよ。あたしびっくりした。もう美佳ちゃんはどこか遠い人みたいって思った。そう言ったら、『まだ全然ダメだよ』って笑うの。校内で5位以内にいつも入ってて、あたしがわかんない問題とかもすらすらわかっちゃうような美佳ちゃんでも、『まだダメ』だって。全国でみたら、全然すごくないんだって。そう言ってた。すごくしんどそうだった。だからあたしもがんばろうって思った。美佳ちゃんまでは無理だけど、イッコ上の大学受けれるように。自分でも頑張ってるつもり。なのに・・・あんたは何してんのよ。受かる気、あるの?」
彼女は一気にまくし立てると、僕の目を覗き込むようにして睨んだ。まるでずっと走ってきたかのように肩で息をしていた。たくさん喋ったからかもしれない。もしかしたら、もっと違う理由があるのかもしれない。
「俺は・・・」
何もいえなかった。いえるはずが無かった。僕は別に悲観主義者じゃない。だから勉強してもどうせ無駄だとか、そんなことは考えてなかった。ましてや受かる気がないとか、そんなんでもなかった。
僕は要するに、逃げたかったのだ。勉強漬けの日々から、ちょっとお暇して、ぼんやりとした陽の中で、ふわふわ流れていたかったんだ。大した夢も展望もなくって、勉強も平均以下の僕はいつしか、『大学に受かるために勉強』してるんじゃないかって、急に不安になった。身をすり減らして、頭の中をあふれたコップみたいにした結果が、空っぽの自分になるんじゃないかって、怖くなって、それはきっと現状からの逃避に違いないんだろうけど、だから僕はくだらない事をいろいろ考えてた。自分は空っぽになったりしないぞって、考えて、考えて、考えすぎた。
気がついたら、何も分からなくなってたんだ。何もなくなってた。いや、「何か」はあったけど、それが何なのか、掴む事は出来なかった。まるで綱渡りをしているみたいだ。綱渡りは下を見ちゃいけない。ずっと前を向いていなくちゃいけなくて、いつしかそればっかりになってしまう。ずっと向こうの、画用紙みたいな建物を見ながら、僕は足を踏み外している事さえ気づかない。その網膜に張り付いた平べったい景色を見ながら僕はゆっくりと落ちていく。
「何やってんだろうな、俺」
ようやく僕はそう搾り出した。全身は熱く、喉はカラカラだった。ああ、この暑い陽のせいだ。
彼女は僕を睨むのをやめ、頬を緩めた。
「いまさら何いってんの。さっきからいってるじゃん。何してんのって」
ああそうだ。何してんだろう、僕。
薄く絵の具を塗ったような影は少し傾いていた。気がつくと、僕は両手をきつく握り締めていた。そのせいで、手のひらにはツメの痕が付いていた。本はだらしなくページを開き、床に落ちていた。と、その本を彼女が拾った。まるで書類を正すように丁寧にホコリを払い、ぱたり、と本を閉じると、
「しばらくコレは没収」
自分の鞄へ突っ込んだ。
「ああ、おい、返せよ。それは関係ないだろ」
「これが一番関係あるんじゃない。こんなわけわかんないの読んでるから、わけわかんないこと考えて、わけかわかんないことでウジウジなやんでんの、よっ」
「の、よっ」のところで彼女は僕の肩を掴み、強引に引っ張りあげた。同時に立とうとしていたこともあって、ちょっとよろけた。
「ふらふらしない」
「はい」
僕が大真面目に返事すると、彼女はちょっと吹いた。説教までされたんだ。誰だってこんな態度になっちゃうって。
「いこっか」
「ん」
彼女が歩き出す。僕も歩き出す。影が動く。どこか立体感を持って、それは滑らかに動いていく。
機嫌良さそうに歩いていた彼女は、ちらりと僕を見て言った。
「あ、そうだ」
「なに」
「今から文房具屋いくから」
「なんでだよ。塾いくんだろ」
「何事も全ては形からなの。あんたマーカーも持って無いでしょ。あたし知ってるんだから」
そのままずんずんと歩いていく。
そのとおり。この前貸して、といわれたときに無い、と答えたらこっぴどく叱られた。


すべては形から。


まあいいか、と僕は呟いた。結局のところ、何もわかりやしないのだ。いくら考えたって、考えなくたって、こんな僕に何かがわかるはずが無いんだ。

まあ、そんなもんだ。
僕は文房具屋で何を買おうか思い浮かべながら、彼女の後を追った。